イスラマバード:“パキスタンの核爆弾の父”アブドゥル・カディール・カーン博士は、先月発症したコロナウイルス感染症のために重度のダメージを負い、肺を侵されたことがもとで、入院中の現地の病院で、日曜日、亡くなった。
カーン博士(享年85歳)は、パキスタンを核保有国にしたことで国民的英雄として尊敬されてきた。イスラマバード政府は、1998年に初めて核兵器を爆発させたが、博士は当時、イスラマバード近郊のカフタにあるウラニウム濃縮施設であり、その後自然科学の各分野に研究領域を広げたカーン研究所(KRL)のトップだった。
パキスタンの首相イムラン・カーンは、この原子力科学者の逝去を受けて、ツイッターに投稿した。「我々の愛すべきカーン博士は、私たちを核兵器保有国にしてくれた。このことは我々パキスタン国民にとって、核兵器を保有する、好戦的ではるかに巨大な隣人(インド)を前にしての、安全保障を担保する意味をもっていた。博士はパキスタン国民の国民的象徴だ」。陸軍幕僚のカマル・ジャヴェード・バジュワ将軍は、パキスタンの防衛力強化という点でカーン博士の貢献は「著しい」ものだと述べた。
2004年に、大規模な世界的核拡散疑惑での容疑を認めた後、カーン博士は、厳重な警備の中、イスラマバードの高級住宅街E-7地区にある自宅で隔離生活を送っていた。テレビ放映された演説で、彼はイラン、北朝鮮、リビアへの核技術の違法な拡散の責任を認めた。軍の元司令官であるパルヴェーズ・ムシャラフ将軍は、彼を解任した。ムシャラフ前大統領はその一方で、大統領権限で博士に恩赦を与えたものの、2009年まで自宅軟禁下に置いた。「私が責任を受け入れなかったら、パキスタンはもっと悲惨なことになっていただろう」と核科学者はかつて語っていた。
パキスタン系アメリカ人の研究者であり教育者でもあるハッサン・アッバスは、2018年の著書「パキスタンの核爆弾:反抗、抑止、逸脱の物語」の中で、イラン、リビア、北朝鮮への核拡散についてのカーン博士の関与を強調している。
アッバスは、カーン・ネットワークの起源と展開は、パキスタンの国家的核兵器プロジェクトの根底にある国内および国際的な政治的動機に結びついていると書いた。
同氏はまた、核インフラを支援する上での中国とサウジアラビアの役割についても検討した。カーン博士は中国の核施設と密接な関係があると報告されている。
米国国務省は2009年、カーン博士は「核兵器の開発を目指す国々に“ワンストップ・ショッピング”を提供する、核機器とノウハウの普及のための広範な国際ネットワーク」を運営していたと述べた。
同省は、このネットワークの行動が「拡散の状況を取り返しのつかないほど変化させ、国際安全保障に永続的な影響を及ぼしてきた」という。
西側の外交官は、カーン博士が単独で行動できたかどうかを長い間疑っていた。過去に外国メディアと話をしたカーン博士は、自白は「私の手に渡された」と言っていた。
カーン博士は1936年、インドのボパールで生まれ、印パ分割後、家族と共にパキスタンに移住した。博士は1960年にカラチ大学で科学の学位を取得した後、ベルリンで金属工学を学んだ。その後、彼は高等研究のため、オランダとベルギーへ赴いた。
1974年のインドの核実験の後、彼は秘密裏に進められたパキスタンの核技術開発に加わった。この目的のために、彼は1976年にKRLを設立。2004年に不正な核物質拡散ネットワークを運営していると糾弾されてムシャラフに解任されるまで、長年にわたってその主任科学者およびディレクターを務めていた。
最晩年の数年間、博士は移動制限の緩和を裁判所に求めていた。「私は自由に動くこともできず、誰とも会うことのできない囚人にされていた」とパキスタン最高裁判所に手書きのメモを書き送っていた。
先月、彼は病院で治療を受けていたとき、イムラン首相も他の閣僚も、健康について聞いて来なかったと不平を述べていた。博士は、新型コロナの検査で陽性となった後、8月26日にKRL病院に入院した。その後、彼は駐屯地ラワルピンディの軍病院に移された。彼はウイルスから回復した後、数週間前にそこから退院した。しかし、昨夜、肺の出血で呼吸不全となり、容体が悪化。午前7時04分、医師は彼の死亡を宣告した。
博士に対しては、イスラマバードのH-8墓地に埋葬されるのに先立ち、イスラマバードのファイサルモスクで国葬が催された。葬儀には、閣僚、国会議員、軍将校などが出席した。彼の死を悼んで、半旗が掲げられた。
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