マルゲリータ:アッサム州の最奥地、ミャンマーとの国境にほど近い小さな町、マルゲリータのハリッシュ・サイキアとルブル・チェーティアにとって、1月と2月は非常に慌ただしいものだった。
この二人は、RSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh:民族義勇団)とそのインド東北地方における姉妹組織に所属する、約13,000人のカールヤカルター(運動員)の一員として活動していた。彼らは、できるだけ多くの世帯を「マンディル(寺院)運動」に取り込もうと、アヨーディヤのラーマ寺院建設に対する募金を呼び掛けて回った。
彼らが東北地方の7州から集めた3億5千万ルピーは、大海の一滴かもしれない。しかし、運動が遠く離れた国境の村にまで届いたということは、サンガの存在感がますます大きなものとなっていること、そしてまた、これまで顧みられることのなかった地域の隅々まで、全土を隈なく募金活動の動きに結びつけることを目指して、途方もない労力がこの運動につぎ込まれたということを、まざまざと証明している。
しかし、それは困難な試みだった。というのも、歴史を通じて、この地域ではラーマが神として信仰されたことはなかったのだ。
1月15日から2月27日まで、サンガの関連団体であるVHP(Vishwa Hindu Parishad)の主導で、アヨーディヤのラーマ寺院建設のための募金活動が行われた。3月のVHPの声明によると、インド全土で90万人のボランティアが、250億ルピーを、同寺院建設のために集めている。
サイキヤ氏によれば、運動員たちは、「アッサムでなぜラーマなのか?」、また、「なぜUP州に建設される寺院にアッサムの人間が寄付しなければならないのか」、といった質問を浴びたのだという。
「祈りの歌やフソリ(ビフ祭りの歌)というアッサムの民謡の中に出てくるラーマというのは、アヨーディヤのラーマのことだと人々に分かってもらおうとした。私たちはラーマの写真や偶像を持ってはいないけれど、ラーマはアッサムの文化と伝統に深く根付いたものなのだ」とサイキヤ氏は言う。
運動のスローガンは「From Namghar to Ram Ghar(ナームガルからラームガルへ)」だったという。ナームガルとは、アッサム州にあるコミュニティの礼拝堂で、ヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ派ヒンドゥー教徒)の聖人として尊敬を集める、15世紀に活躍した社会改革者のシュリーマンタ・シャンカルデーヴに因んだ施設だ。
ガウハティ大学の政治学教授アキル・ランジャン・ダッタ氏は、アッサムの社会ではラーマに対するイメージが北インドでのそれとは異なっている、と説明する。
「ラーマーヤナ mi」の問題は、ヒンドゥー教の牙城となる州では土地の文化と自然と共鳴した。RSSとその姉妹組織は、本来はラーマの物語とは似ても似つかない、東北地方の文化風土に根ざす表現法やモチーフに、賢く自分たちのラーマヤナ物語を当てはめてきた。」と言う。
「アッサムではシャンカルデーヴのエーク・シャラナ・ナーム・ダルマ(Eka Sarana Nama Dharma)に、アルナーチャル・プラデーシュでは土着宗教のドニィ・ポロ(Donyi Polo)に、ナガランドではラニ・ダイディンリウ(Rani Gaidinliu)女史に、というように当てていくのだが、これがその興味深い実例だ」と、バッタチャルジー氏が続ける。
VHPの東北地域幹事ディネーシュ・ティワリ氏は、ラーム・マンディルの募金活動は当該地域のすべての地区で行われ、反対する者は一人もいなかった、と主張している。
12,800人の運動員が地域を飛び回り、時には困難な地形に悪戦苦闘しながら、東北州で3億5千万ルピーを集めたという。
興味深いことに、東北部の7州のうち3州ではキリスト教徒が大多数を占めており、他の2つの州ではキリスト教徒が人口のかなりの部分を占めている。
キリスト教徒やイスラム教徒も自ら名乗り出て、寺院建設のために寄付をしてくれた、とティワリ氏は言う。
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